堅気屋倶楽部
  • このページは「関西じゃりン子チエ研究会」の掲示板「堅気屋倶楽部」の過去ログです。
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「風と共に去りぬ」を考察 [ テツのひげ ] 02/06/15 00:02
『風と共に去りぬ』の女たち、という本に戦時中の日本人でこの映画を観ていた人たちがいたことが記述されているそうです。大学生の徴兵猶予が取り下げられ、東京帝国大学の学生たちが『学徒出陣』のはなむけの意味を込められて、安田講堂で映画の観覧の機会が与えられたのだそうです。

戦前に公開するべく一時輸入された『風~』ですが、「反戦映画」だということで 本国に返却されてしまい、とうとう戦後の昭和27年の公開となってしまったそうです。昭和42年に70年版が公開されたときは、映画館にお客さんが殺到し、警察の装甲車まで繰り出して、整理に当たったそうです。

 はるき悦巳先生は、1947年5月28日大阪市生まれということなので、昭和27年に公開された記憶(5歳くらい)で1巻の80ページを描いた可能性は低いと考えられます。だとすると、昭和42年の記憶(20歳くらい)で、1巻80ページを描いた可能性が高いと思われます。梅田スカラ座(自分はよく知らない)の上映記録では、昭和42年の4/22から7/7まで上映されていたらしいです。

 初め、ホルモンの値段を考察するために時代を調べたのですが、ちょっと(かなり)古すぎました。(もちろん、1巻208ページに時代がはっきりしているひとこまがありますが、連載当初やや古い時代設定をしていた可能性はないかと思い、調べました)やはり、「明日はまた明日の太陽がピカピカやねん」という言葉を使うためだけに描いたものだと推察しました。

定説を覆せるか [ テツのひげ ] 02/06/15 11:09
以下に貴重な資料を見つけました。
http://village.infoweb.ne.jp/~koinuma/revival.htm
『風と共に去りぬ』は、1巻80ページの映画の看板と比べると、先に書いた1967年(昭和42年)のものと同じですが、1975年(昭和50年)のものとも同じであることが分かります。更に自分が調べた結果、1975年の上映期間は7月~12月までとあるので1巻の11月~12月頃の季節(服装などから)ともビンゴします。私が言いたいのは、1巻の208ページでは昭和54年の設定(当時の現在)で書かれていますが、連載当初の時代背景は1975年の秋であった可能性がかなり高いものと推察しました。
年齢への影響を考察 [ テツのひげ ] 02/06/16 13:42
昭和50年から、竹本家の年齢が変化していないと仮定すると、テツの年齢が狂ってきてしまいます。具体的には、15巻21ページで朝子さんが「ヨシ江さんとは十年以上つきあってたんでしょ」というセリフからです。ですから、今まで考察されている年齢は間違っていないと思います。

しかし、1巻の11話でそれは確定されますが、それ以前(1巻の10話まで)にはるき先生がどのような考え(イメージ)で、「じゃりン子チエ」を描いていたかは分からないことだと思います。そもそも私が、「風と共にさりぬ」を考察した理由は、1巻の1話と2話で明らかにされているホルモンの値段を考察していて、それ以降のホルモンの値段と比較し、少し不自然だと思ったからです。僅かに古い時代の設定で、50円の可能性があるのではないかと思ったからです。細かい私の考えは、その内論文で書こうと思っています。

「風と共にさりぬ」が、ただのイメージで描かれたものか、チエちゃんが実際にその看板の前に居たのか。根拠が無くてもいいので、皆様の考えをお聞かせ下さい。

眠狂四郎大会の上映 [ テツのひげ ] 02/06/17 02:13
2巻38ページに、「ウチ テツと眠狂四郎大会みに行ったから」というセリフがあります。「朗雷会」(市川雷蔵のファン倶楽部 http://raizofan.net/)のホームページで、1970年代の眠狂四郎シリーズの上映(リバイバル)について質問したところ、貴重な意見が聞けました。

『東京では、伊勢丹ヨコの新宿ロマン劇場が74・75年の当時大映三銃士、市川雷蔵特集等々と銘打ってオールナイト上映(土曜日)を盛んに行い、七回忌の特集上映もここで行われ白菊に囲まれた遺影を憶えています。
ちなみに、上映作品は「濡れ髪剣法」「忍びの者」「ある殺し屋」「ひとり狼」「眠狂四郎円月斬り」衣笠監督、伊達三郎さん等々がスピーチしてくださいました。』

はるき先生が高校を卒業後上京したということは、1974年~1975年の頃、東京に居たことになります(よね?)。その頃、はるき先生が「眠狂四郎大会」のようなものを見ていたとしたら、チエちゃんが見たのも1974年~1975年頃の設定ではないかと思われます。テツが眠狂四郎シリーズのような内容の映画に、チエちゃんを見に連れていくとしたら、小学校低学年の可能性は低いように感じます。1975年の時に小学5年生だと仮定すれば、1974年の時に「眠狂四郎大会」なるものを見たとしても、小学4年の頃なのでストライクゾーンに入ると思われます。

やはり、自分の考えでは「じゃりン子チエ」の一番最初の時代設定は1975年の晩秋であると考えてしまいます。

冷静に考えて [ とりちゃん ] 02/06/17 17:27
竹本テツ親子が「新宿ロマン劇場」まで「眠狂四郎」を見に行ったとは当然ながら考えられません。

設定が1975年であるとするならば「風と共に…」と同様、大阪でも同様の上映があったのかを立証する必要があるのでは?

Re:冷静に考えて [ テツのひげ ] 02/06/17 17:59
ウーン、「はるき先生の目に入ったもの=チエちゃんの見たもの」と安易に考えて大丈夫だと思ったのですが…。これを調べるのはかなり難しいことだと思いますが、分かり次第報告します。

「風と共に…」の方だけでも「妄想」と捉えられていなくて、ほっとしました。ホルモンの値段の研究から調べていったことですが、無事論文は完成しました。題名は「ホルモンと酒の価格変動とチエちゃんの収入」というかなり欲張ったものです。ただ、「ホルモン50円」の設定を昭和50年の晩秋頃であるとしているので、審査が不安です。今まで自分が過去ログで書いて来た内容とも大幅に違いますが、最終的に自分が一番正しいと思うことを書きました。

「風と共に去りぬ」を鑑賞して [ テツのひげ ] 02/06/18 22:26
こんな名作を今まで知らなかったなんて…。ただの恋愛映画だと思っていましたが、ただのラブロマンスではないです。上映時間が3時間52分の映画であるので、流石に何度も見ようとは思いませんが。未来永劫に語り継がれる名作と呼ぶのにふさわしい作品であると思いました。ここは「じゃりン子チエ」の掲示板なので、作品の内容については詳しく触れません。

私の見たビデオでは、スカーレットの最後のセリフが次のようになっていました。
「考えつかないわ 頭が変になりそう 明日考えるわ…省略…明日に望みを託して」

チエちゃんの名言「明日はまた明日の太陽がピカピカやねん」の部分だけではなく「あかん明日考えよ」の部分も作品と関係があることが分かりました。「明日は明日の風が吹く」が何処にも出てこないではないかと思い、ネットで調べたら訳し方の違いであることが分かりました。

after all,tomorrow is another day

 この訳がビデオでは、「明日は明日の風が吹く」ではなく、「明日に望みを託して」となっていたのです。「明日は明日の風が吹く」の訳し方は、凄いと誉め称えられていることが多い(むしろ全部)のですが、私はちょっと違和感がありました。内容的には、「明日に望みを託して」の方が場面に合うと思うのですが、after all(だって)という言葉を無視してしまっています。「だって、明日は明日の風が吹くのですもの」と訳すと、かなり強引な意訳になっているような気もします。「tomorrow」の後にスカーレットは少し間を取ります。私は次のように、訳すのが自然だと思うのですが。
「だって、明日は……、違う一日が待っているのですもの」
 チエちゃんとスカーレットの比較を考えようとしていたのですが…、私には難しすぎて分かりませんでした。でも、メラニーはヒラメちゃんかな(笑)。

チエちゃんとスカーレット [ テツのひげ ] 02/06/20 00:43
テツのひげはこれ以上間を持たせるのが苦しゅうございます。もうヤケクソで、チエちゃんとスカーレットの比較をしちゃいます。チエちゃんもスカーレットも、
  • 心の優しい友人(ヒラメちゃんとメラニー)がいる。
  • なかなか心が読めない。
  • 人を扱うのがうまい。
  • 美人である。
  • 男性にもてる。
  • 南部の人ある。
  • 健康優良児である。
  • 不幸に強い。
違う所は、
  • チエちゃん…「ウチは日本一不幸な少女やねん」
  • スカーレット…「神よ!私は誓う!もう2度と飢えないことを!」
所です。なぜ違うかというと、チエちゃんはホルモン屋さんなので飢えることがないから。そして、この作品から想像されるチエちゃんの将来は…。チエちゃんは男性にもてるようになると思いますが、本当に好きな男性とは価値感の違いで…。
A Civilization gone with the wind…
本当に感動します。まだ見たことない人は、レンタルビデオで簡単に借りられます。責任は持てません。以上。
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