堅気屋倶楽部
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続・花井家の謎 [ 馬牛 ] 07/06/11 17:09
 川崎市在住者さん、「花井家の謎」に御感想をお寄せいただきありがとうございます。御指摘の「幼少の頃より東京の私立学校に通学していた、或いは初等から高等教育の段階までいずれも同一者の運営する学校に通っていた可能性」は、花井渉が少年時代に大阪を離れ大学卒業まで在京し続けていた理由として有力であると考えます。
 今回は、この他に幼少時に親元を離れ他郷に暮らすことになる理由について、私自身が見聞した例を挙げ、花井家の場合について妥当するかどうか考えてみたいと思います。
 「花井家の謎」に続けるべきかとも思いますが、少々時日を経過しましたので、別系を起こすこととします。

(1)花井渉は少年時代ひどい不良だった。

 私が中学2年に進級した前後に、県庁所在地の都市から転校して来た男子生徒がそうでした。どこからともなく聞こえてきた噂では、以前在籍していた学校で、妊娠していた女性教諭の腹部を蹴って流産させたのだとか(真偽は不明)。中学3年の秋頃に姿を見かけなくなり、卒業アルバムにも載っていない、以前帰省した折郷里の友人に彼の話をしたところ、「そんな奴いたっけ」と忘れ去られていました。
 一目でそれと知るほどに「不良とヤクザに敏感な」テツ(第7部11話)が反応しない以上、この仮定は成立しないと言ってよいでしょう(テツには理解できない「不良」だったことはあるかも知れませんが)。

(2)難病治療のため、上京していた。

 第15部3話中の花井朝子の会話にある「病弱な夫」、作品を通して見られるやや虚弱な雰囲気(第6部6話、7話、また第16部で妻の悪阻に「感染」してしまった件など)は、上記の如き事情の存在を匂わせますが、大阪では治療が覚束ないほどの病気に侵されたわが子を東京の親戚に預けたままにしておくだろうか(第14部11話で母親の思い出についてテツに尋ねていることから、渉は自身の母親についてよく覚えていないのではないか)、なぜ一家そろって上京してしまわなかったのか、との疑問が生じます。

(3)花井渉は、花井拳骨夫妻双方の、またはその一方の実子ではない。

 花井拳骨夫妻の間に子供ができなかったために、養子として迎えられたのだとすると、渉はそもそも大阪出身ではないのかも知れません。渉の息子アキラの容貌からアキラと拳骨の間の血縁は示唆されている(第33部2話)ので、仮に渉が花井夫妻の養子であるとしても、彼は拳骨の親類に生まれたと考えるべきでしょう。
 花井夫人が拳骨以外の男性と関係して渉が生まれたとすると、この仮定下では親子関係の存在しない拳骨と渉が夫人の死後に同居していることになり不自然であること、上述の如く拳骨とアキラとの間に血縁関係が伺えることから、花井夫人が不義を働いたとは考えられません。
 では、拳骨が夫人以外の女性に産ませた子供が渉だったとする可能性はどうでしょう。
 これも人の弱みに目敏く、一度相手の弱みを見つけたら繰り返しそれをつくテツ(第14部2話)が、恨み骨髄の恩師のこんな弱みを見逃すとは思えません。

 以前は、中学生か高校生の頃の渉が事あるごとに父親に反抗するため、花井夫人の心労が重なり、渉は東京の親戚に預けられることになったのではないかと思っていた(渉が標準語を話すようになったのも、拳骨に反発するあまり、意図的に関西弁を話さないようにした結果なのかも)のですが、もっと厳しい事情が存在したと考えるべきもののようです。
渉はなぜ、ことによると小学校入学以前に両親と離れて暮らすことになったのか、「謎は深まるばかり」であります。

No.3039で述べたように、私は花井渉の年齢を30前後と考えていますが、仮に1978年に30歳とすると、彼が学生生活を送ったのは、大学紛争の激しかった1960年代後半頃になります。作品中の渉は真面目一方の小学校教諭として描かれていますが、学生時代はヘルメットにゲバ棒を持って、機動隊に激しく抵抗していたかも知れませんし (朝子は女闘士だった?)、髪も鬚も伸ばし放題、大麻やLSDに溺れていたのかも知れません。

 もう一つ不審なのは、第14部9話でヨシ江さんは毎年花井夫人の命日に花井家を訪れているとあるのに、第1部で花井渉が主人公の家庭の事情にそれほど通じていない様子なのはなぜか、ということです。「母親の命日には毎年欠かさず参列してくれるあの婦人は、自分の勤務する学校の児童の保護者なのだが、夫の許に子供を残し別居中、夫婦の仲人を務めたのは彼の両親である」、といった情報がなぜ渉に伝わらなかったのだろうか、ということです。まさか毎年東京の友達の結婚式のため、不在なんてことは…。合理的な解釈としては、渉が西萩小学校に赴任したのは1978年4月であるとすることですが。

 種々根拠薄弱なことを記してきましたが、第14部で渉が母親の命日に不在なのは、「死んで返らない人間よりも、生きている友達を大切にしろ、その方が母さんも喜ぶ」と父親に勧められたからとするのが、最も穏当であることを認めておきます。

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